承前啓後
1900
- 明治33年
- 服部倉治郎が浜松市舞阪町でうなぎ養殖をスタート。
餌となる養蚕サナギが簡単に手に入った上、浜名湖に遡上する稚魚を捕獲しやすかったことから、浜名湖周辺はうなぎ養殖にうってつけの地でした。
1934
- 昭和9年
- 浜名湖産うなぎの流通拡大のため浜名湖食品を設立。
昭和9年(1934年)、地元の名士達の出資で、浜名湖食品の前身である濱名食料品會社が資本金10万円で設立されました。生産過剰による相場暴落などを防ぐため、うなぎの缶詰を考案。販路は国内大都市圏はもちろん、外地(旧満州国ほか)まで広げる計画を立てました。
1943
- 昭和18年
- 太平洋戦争の進展にともない缶詰部門は、静岡県缶詰株式会社に企業合同。その後太平洋戦争の終結にともない、1948年、静岡県缶詰株式会社は解体され、浜名湖食品が缶詰部門を吸収しました。
1949
- 昭和24年
- 資本金を500万円に増資
1950
- 昭和25年
- 資本金を1,000万円に増資
1953
- 昭和28年
- 資本金を1,500万円に増資
1963
- 昭和38年
- 高度経済成長と相まってうなぎの消費量も大幅に増え、会社も拡大していきました。
1965
- 昭和40年
- 輸出貢献企業工場として通産省の認定工場に指定。
1977
- 昭和52年
- 本社工場新設落成
1987
2000
2010
2022
創業から80年以上。
「古き良き日本の味」を大切に守り続け、お客様に「懐かしさ」や「安堵感」を提供したいと考えています。
今も昔も変わらずこだわりを持ってうなぎの蒲焼を作り続けています。
鰻缶こぼれ話
うなぎ好きの歌人・斎藤茂吉が
大量に購入したとも
うなぎ好きの歌人・斎藤茂吉は食糧難の戦時中に、うなぎ蒲焼の缶詰を押し入れに大量に備蓄し、時折愉しんでいたことが当時の日記からうかがえます。
(昭和18年) 七月二十一日 水曜、豪雨、(昨夜終夜雨)
○五時半ニ起キ、ウインケルマンヲ少シク読ンダ。午前中午睡一回、○午食ニ数年前買ツテオイタ鰻ノ缶詰ヲ一ツ開イテ、二度ニ食ッタ、ソノオカゲカ勉強シ、ひげナド剃ッタリ、手紙ハガキハジメテ書イタ、○夕食后モ、言葉ノコトヲ少シカイタ。
(昭和19年) 八月二十六日 土曜、終日雨、
○朝カラ雨、憂鬱。○強羅デ作ッタ歌ノ一部ヲ清書シハジメタ。大雨ガ降ッテ如何トモシガタイホド憂鬱デ、ナルコポン丸二粒ノンダ。ソレデモ何カ書イテ居レバ気ガ紛レタ。郵便ハ会津八一、宇野浩二、斎藤滋郎、美智子等ウレシイ手紙デアッタ。紅茶ノム。○夕食ニシマッテオイタ鰻ノ缶詰ヲ食ッタガ非常ニ楽シカッタ。夕食后モ九時マデ筆記シタ、ヌルイ湯ニ入ッテ寐タ。
また、戦後、大事にしまっておいた缶が錆びて食べられなくなったことを、惜しみつつ歌に詠んでいます。
十餘年たちし鰻の罐詰ををしみをしみてここに残れる
(『つきかげ』「強羅雑歌」昭和24年)
戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき
(『つきかげ』「手帳より」昭和25年)
他にも浜名湖食品のうなぎ缶詰は著名な落語家のお気に入りだったり、アスリートが世界大会に持ち込んだり、有名政治家が収監中に食したなど、さまざまな伝説を残しています。
便利さが優先される現代に、あえて缶切りでなければ開けられない缶を選択するのは、この手間さえも贅沢な時間として楽しんでほしいから。
山椒とわさびを用意し、温かい白飯の上にうなぎと缶底のたれをかける。
先人たちも思わず笑みをこぼしたに違いないご馳走のでき上がり。